新聞研究所設立時の経緯 「法制的に行悩み」 東京大学新聞 昭和22年10月16日号

東京大学百年史 部局史4 新聞研究所 P495


新聞研究所官制案は議会提出の寸前で、第九十二帝国議会も次の第一国会(昭和二十二年五月二十 日召集、同十二月九日閉会)も見送られている。その主要な理由は 、官制案第二条に「研究並びに教育を掌る」 とあること について、総理庁(当時)法制局から異議が提出されてその処理が難航したためであった。 

「法制的に行悩み」 東京大学新聞 昭和22年10月16日
      補正案を提示(文部省)問題となった「教育」

法制局の異議は、学校教育法によれば、研究所は研究施設であって教育施設ではなく、従って、新聞研究所官制案第二条に「並びに教育」とあるのは、学校教育法に 抵触する、という法律解釈論にあった。
今回問題となっている「教育」はこれを削れば折角新聞研ができても新聞研としての機能が発揮できず「教育」の文字をそのままのせれば法制局と学校教育法の改正案を国会出さねばならぬと法制局が主張するところにジレンマガある。文部省としては学校教育法の改正という根本にまでさかのぶらず、代替案として「新聞、出版、放送および映画に関する研究内容および(これらを業としまたは業としようとするものの教育を掌る)(カッコ内を補う)と訂正して法制局に提出することになった。
 研究所で教育を行ったのは戦時中の文部省直轄の「国民精神文化研究所」があり、この管制に「国民精神文化に関する研究、指導及び普及を掌る」とあり「指導の名目で「教育」を行ってきたのであるが、これは文教に関してオールマイティである文部省直かつであるから、よいと法政局は主張し、東大側は、研究と教育をなすべき大学の機能内で教育を行うことに支障はないとしている。

東京大学100年史 部局史4  新聞研究所   P495
法制局の異議は最終的には、「研究並びにこれらの事業に従事し、又は従事しようとする者の指導及び養成」とすることで決着がつき、実質的に本学側の主張が貫かれた形となったわけである。南原総長も、さきの回想記の中でこの問題にも言及し、「(新聞研究所の)設立に当たって、 一つの困難な問題 は、新研の組織についてであった。 研究所が学生をもつことについては、法制局に強い反対があり、一時難 航したが、結局、了解が得られた 」 と 述べている 。

 

東京大学社会情報研究所紀要 No.58  元 所長に聞く  P4-P6

聞き手 結果的には日本の国立大学のなかでは、ジャーナリズムやマス・コミュニケーションの研究所や学部やコースは、新聞研究所を除いてはついに1つもできなかったのですね。

内川 国立大学では東大新聞研究所が唯一の研究教育機関ですね。

  --  中略 --

内川 研究室時代の研究生制度というのは、制度的には東大学内のきわめてインフォーマルなものですね。それに対して研究所になってからの研究生制度っていうのは、国立大学設置法の中に、研究所の設置目的に研究と教育の両機能を新しい研究所がもつという制度的位置づけを与えられている。ただし、「指導・養成」という言葉を使うことによって、表現上、学部の教育との差異化がはかられたわけですね。しかし、制度的には拡充ということになるでしょう。